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創作小説「駅、水の中にて」

特に目的は無かった。

奇を衒いたかったと言えばそれまでだけど、そもそもそんなに自己表現したい方ではないし、する理由もない。ただ意味も無く脱力して生きている自分への刺激として、喝を入れたかっただけなのかもしれない。
果てしなく離れた遠距離恋愛の初日、私は髪を真っ青に染めた。

初めての試みが生んだ新鮮味は、一人ぼっちの私の中をぐるぐると回る。一番共有したい人は、遠くに行ってしまった。

視界に映る髪の端は、まるでこの気持ちみたいに元気の無い色だった。そんな髪を抱えて何日経ったかも忘れてしまった。日付も曜日も感覚から消えてしまった。日々を消費しているのか、はたまた引き摺られているのか分からないけれど、消極的な生活は何故か疲れる。

普段夕方に起きる私が、よもや昼前に寂れた駅前にいるだなんて誰が予想したことだろう。

とうに擦り切れた大学の授業へのやる気と比例したボロボロのスニーカーを履いてやっては来たものの、この髪では閑静な田舎の風景を人口色で乱すだけだ。

目立つ色であるとはいえ、通行人すら殆ど居ない。誰も私を見ていない。

だが、それが良かった。誰も知らぬこの場所で、私は頭上の快晴と同じ頭で此処に立っている。

空の色を映した海の波がきらきらと光る。海の近いこの街は小高い丘になっていて、駅前から目下の海が見える。まるで、ここで軽く跳ねたら、そのまま墜ちて溺れてしまえそうなほど近く見えた。
潮風が手首の傷を刺激した。

思い悩む度に、心が痛んで死にそうになる度に、どんどん気持ちは無になっていく。思考することで傷つくのだと悟ってから、私の意思は波に攫われる砂粒宜しく少しずつ削れて消え続ける。

手首の跡は古いものが大半で、最近のものはほんの数本。自傷行為に救いを見出せる楽観論は、今の私にはもう無い。
「あなたの為の心の部屋に、いつまでも鍵をかけているよ」

イヤホンから流れる聞き慣れた曲のフレーズ。共に呟いて、無人の改札にSuicaを鳴らす。足を踏み入れたホームにも、他人の息遣いは無かった。

目的の電車まで数十分。まだ大分ある。古びた椅子に座って、天井の蜘蛛の巣を見上げる。

時間の計算など何もしなかった。早朝に寝て夕方に起きる生活を今日だけ無理に変更した所為で、頭がますます弱くなっている。

しかしそんな脳でも今からの計画だけはしっかりと記憶していた。

何かを実行する為には勇気を出して一歩を踏み出そう、と小学校の教師が微笑んでいた余計な光景まで浮かんできた。恐怖を克服してこそ幸せになれるだとか、努力は必ず報われるだなんて理想論、馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。けれど、結果的にそれを体現しようとしていることは正直言って悔しい。

思考も努力に含まれるのなら、私は世界中で一番渇望し、それから絶望した。

叶わないことや取り返しのつかないことが世の中にはこうも溢れているのに、どうして私達より愚かな人々が幸せに暮らしているのか。声にならない疑問が理不尽への怒りに変換されて、湧いては弾けた。
線路は左右に延々続く。ただここで電車を待つより、どちらかに向かって歩こうかとも思った。ふと目を横にやると、そこには海岸線に沿って進む線路が続いている。

「このまま歩いたら、君に会えるかな」

耳元で歌われる言葉から、叶わない夢と届かない願いが弾けて、目頭に刺さった。

かつて、恋人と交わした会話が頭を駆け巡る。

「海に入っても魚にはなれなかったね」

「僕らは何処へ向かうんだろうね」

黒ずんだスニーカーが、レールの上を進んでいく。

 

あの日二人は、一緒に死のうと海に入った。入水心中は、本来なら大成功の筈だった。

互いに手を離さないまま、歩みは止まらなかった。生に対して後ろ向きな私たちの最期が、前進で飾られる皮肉。足が冷えた水の中で鈍く融け、隣の君が声を出すのをやめたとき、生まれて初めて本当の死を実感した。繋いだ手の温もりは少しずつ失われた。

つまらない人生がやっと終わる。生まれてきたこと自体が間違いだったのだ。

ぬるい笑みが浮かんだその瞬間、自分は予定と全く反対の行動を取っていた。

これまでの全ての約束への裏切りだと分かっていても、最早理屈でどうこうできる衝動ではない、無意識から湧き出る本能。意志薄弱な私を愛したこの人間の命には、己よりもずっと価値があるのだと、脳天に響き渡った。

私のくだらない命の代わりに、彼の未来だけは守られて欲しかった。

彼の腕を掴み、強引に波打ち際へと引っ張る。目を丸くしてこちらを見るその顔には、驚愕が色濃く滲んでいた。長い睫毛が、潮風を受けて煌めき揺れた。

それらを全て無視して進んだ。私をそんな目で見るな。生きても希望の見出せないあなたを、まだ救いたいと思ってしまうのは、言い訳できない愚直なエゴだ。

「私はあなたに生きていてほしい」

自分でも情けないほどに掠れた声だった。彼は悲しそうに目を細めた後、敢えて返事をしなかった。

「海に入っても魚になれない僕らは何処へ向かうのだろう」

昔彼に借りたCDに入っていた曲の歌詞を思い出しながら砂浜に足を踏み入れた頃には、塩水と海底の砂で汚れたスニーカーの重さがこれまでの非日常を私たちに現実として突き付けていた。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」

「怖くなったの?」

「違う、私は死んでもいいって気持ちは変わらない、ただ、あなたが死ぬのは嫌だって思ったの。あなたがこれまでどれだけ死にたいと思っていたか、自分が一番理解してるつもりだったのに。邪魔をして、不幸な世界に戻して、ごめんなさい。どうか私だけ殺してほしい」

早口でまくし立てる私に、彼は困った顔で笑いながら、

「落ち着いて。怒ってないから」

そっと唇を重ねた。

それから二人は、海を見ながら、寒いねとか、もう帰ろうとか言って、さっき思い出したCDについてなんかの軽い会話をして、笑顔で帰宅した。

このキスが最後だと悟るには、私は頭が弱すぎた。

 

あの日履いていたスニーカー以外、私はもう履けなくなってしまった。

シンデレラにとってのガラスの靴が幸福の約束だとしたら、私にとってこのスニーカーは、枷であり呪いだ。

あの日から少し経った昨日、彼は私に黙って先に逝ってしまった。バスタブで大量の薬を飲み、傷に溢れた手首にナイフをほぼ貫通させて、眠りながら消えた。

同じ水の中でも、今度は寒くなかったね。何も教えてくれなかったってことは、私は邪魔だったんだね。散らかった感情に支配されてから、私の記憶は飛び飛びになり、気付けば髪の色は水と同じそれとなっていた。

海へ行こうかな、と枕木を見つめて思案していると、イヤホン越しにも分かるほど大きな鈍い音がした。

「あ、そうだ、貨物列車通るじゃん」

背後から猛スピードで突進してくる鉄の塊の気配を感じながら、私はもう動かなかった。スニーカーがあの日と同じ重さになったみたいに立ち尽くす。

やっと会えるね。

海へ行く手間が省けたなと呑気に考えるには、全身の痛みは大きすぎた。薄れる意識が、髪と空の輪郭を失わせた。